世界のかすり

かすりの歴史は実のところよく分かっていない。世界的に見ると、どこの国でいつからなどは、
はっきりしたことは分からないが古代インドに発祥した説が有力。
インドはアジャンタ洞窟寺院、ワゴーラ川を取り巻く崖に仏教石窟が掘り始められたのは紀元前1世紀、
それから 7世紀までに29の石窟が作られた。そのアジャンタ石窟に画かれた壁画に「かすり」を着た人物が描かれている。
矢絣風のかすりを着ているのはアジャンタの王や王妃などで、これをこの地方では「カニアリ」と呼んだ。
この壁画が歴史を特定する資料として 古代インド発祥説が有力。
また、法隆寺献納宝物には聖徳太子が着ていた織物類の中に「かすり」がある。
太子間道(たいしかんとう)と呼ばれるこの「かすり」は日本最古、
また年代を知ることができる実物としても世界最古の「かすり」。
聖徳太子、勝鬘経「しょうまんぎょう」(インド勝鬘夫人に対して釈迦が教えを説いたとされる仏教教典)
講賛された際の仏幡(ぶっぱん)との記録があり、それが事実だとすれば西暦598年。
この「かすり」は日本で織られた物ではなくインド・ビルマなどの南方の国の説が有力。
そして仏教が伝来したのは飛鳥時代552年
聖徳太子の「かすり」と アジャンタ王や王妃の「カニアリ」
インドは仏教発祥の地として知られているが仏教とかすり、聖徳太子とダブらせてみると、
仏教伝来の副産物として日本に入ったのか?なんて想像すると、また「かすり」の奥深さを感じてしまう。
久留米かすり
聖徳太子のかすりから日本でかすりが織られるようになるまでに、それからかなりの時間がかかる。
古代インドから東南アジアを経て1400年ぐらいに沖縄に伝わり、さらに鹿児島から千石船で日本へ広まった。
全国のかすりの産地が港に近いのはこのため、その中でも久留米かすりだけは独自の成立で発展してきた。
当時の久留米は江戸時代の筑後国久留米藩下で久留米かすりが誕生する以前は、全国的には主要産地とま
では言えないが棉花の栽培が行なわれ、藍にいたっては大坂に出荷するほどの作付がなされていた。
しかし、織物の生産としては、当時一般的だった各家庭での自給自足的な生産・消費されるほどだった。
そして1788年に井上伝は久留米藩城下の通外町(現久留米市)に誕生した。
12歳のころには大人も及ばないほどの紺無地物や縞を織っては城下で売りに出している。
このころ(1800 年)、紺無地の織物一部に染料が抜けて白い斑点があちこちにできた古着を見て、
伝はそれを面白い模様だと思い、どうなっているのだろうと実際に糸に解いてみた。
そして、逆転の発想で、その糸と同じになるように何本もの白糸の束を他の糸で括って藍で染めてみる。
この紺と白でまだらになった糸で織ってみた、これが久留米かすり誕生の瞬間となった。
その後何度もテストを繰り返し試行錯誤しながら完成度を高めて「久留米原古賀織屋おでん大極上御誂」の
証票を付けて久留米かすりを売り出しまでに至る。このころには「かすれ」を意味して「加寿利」と名づけられる。
当時の着物社会の状況下、現在の洋服のように「ファッション」と掛け合わせて見ることは難しいかもしれないが、
庶民生活での着物は紺無地か縞物しかない中、玉柄・十字柄・井桁柄はかなり奇抜な着物として注目を浴びたのではないか?
ある日、息子が服に安全ピンをたくさん付けて 帰ってきたぐらいのインパクト?当時としては奇抜な?「かすり」と「パンク」を
ダブらせることは乱暴な気もするが、物珍しい「久留米かすり」が日本中を席巻するには、そう時間は掛からなかった。
時代は流れて200年、最盛期には300万反の生産数を誇った久留米かすりも、現在ではわずか10万反以下しか織られていない。
当時、最新だったファッションも 200年経つと、「流行」から「伝統」に変わりはしたが、
井上伝さんの時代から「かすり」は時代と共に変化しつづけている。
今までの200年・これからの200年、また「かすり」がおもしろい。


